kobeniの日記

仕事・育児・目に見えない大切なものなどについて考えています。

さんま、コンビニ、赤ちょうちん

 
小さいころ、遠足の時、おやつをどこで買っていましたか?私は、小学校1年生くらいまで駄菓子屋。その後、駄菓子屋や酒屋がつぶれてコンビニができ始めたので、それ以後はずっとコンビニ。育ったのはとある政令指定都市
 
   
大学生の頃、地元のコンビニでバイトをしていた。幼なじみのMちゃんに誘われて。正直、ちょーテキトーにやっていた。愛想も良くなかったと思うし、淡々とレジを売って袋詰めして、時々ジュースを補充したり雑誌を揃えてみたり。Mちゃんは接客に向いていたのか、「あの人いつもマルメンとBOSSだよね」と常連さんのことを話してくれたり、道を聞かれたら地図を出して丁寧に答え、早々に発注業務もできるようになっていた。
    
ある日、バイト先に向かったら、Mちゃんがレジを挟んで、おばあちゃんと話をしていた。レジの上に、「さんまの煮付け」がタッパにいれておいてあった。さんまじゃなかったかもしれないが、細長かったから、たぶん、さんまだと思う。Mちゃんは、おばあちゃんとしばらく談笑していた。後で聞いたら、おばあちゃんが「Mちゃんに」と、さんまを持ってきてくれたらしい。そういえば、コンビニの裏には老人ホームがあった。
私は、「えーちょっと鬱陶しくない?それ。」とか言ったと思う。コンビニとは、店とは、そういうもんだ。相手が誰であろうと干渉しない場所。だって、話しかけたりしたら、確実に変な人だと思われるじゃないか。そしたらMちゃんは「アハハ、kobeniちゃん老人キライだもんね」と言って笑った。アハハ。
 
 
 
馴染みの飲食店なんか知らないのだ、私は。生まれてこのかた持ったことがない。ちょっとした買い物はコンビニ。ファミマができて、つぶれて、ローソンができて、つぶれる。飲み会は養老の滝。オフィスの近くのダイニングバー的なものも行くけど大抵、●●グループって名刺が置いてある。「つけ」なんか、やったことがない。大学の時にゼミの先生が「喫茶店という場所の良さは、自分のことを誰も知らない空間で、外の喧噪を眺めるという贅沢な孤独にある」みたいなこと言ってた。スタバってこと?それ。それ以外の喫茶店なんか、知らないんだけど。
 
 
 
17才で上京してから、私は何度も引越しをした。会社でも何度も異動があった。その度に誰かに出会って、別れて、ケータイには電話やアドレスを残したままだけど、顔もおぼろになっていく。はてなだってそうだ。たくさんの人と出会っているように思えるが、相手の顔が見えないから簡単に人を傷つけられる。やがて、傷つけた相手がいたことさえ忘れていく。
  

  
27才の頃、住んでいた家のそばに「赤ちょうちん」があった。赤ちょうちんってずっと、何のためにあるのか分からなかった。誰が行くもんなのだろう?と思っていた。帰り道にその店の前を通ると、いつもカラオケの歌声が聴こえた。演歌だ。歌を知らないので覚えていないが、毎晩同じ歌のように思えた。
この年になって、「赤ちょうちん」の存在意義がやっとわかった。いつも同じってことだ。同じメニュー、同じ店主、同じ客。店の前に寝ている、同じ猫。顔と名前を知った人たちが、自分のことを待っている。昨日と何も変わらない、変わらなくていいという安心感。
 
 
早すぎるのだ、物事の移り変わりが、あまりに。いつから新しいものに、それを刺激としてではなく、義務として接するようになったのだろう。「知っていなければ、困ったことになる。知らなければ。手に入れなければ。」
 
 
最近、近所のコンビニが宅配を始めた。1000円から、自宅に商品を運んできてくれる。高齢化社会を見越して、孤独な老人をターゲットにした新しい商売の方法なのだろう。それは皮肉にも、かつては駄菓子屋や酒屋がやっていた「地域に根ざした商売」のスタイルへの回帰にも見える。私も子供が小さいので、ママ友さんたちと集まって外へ出るのが困難な時、配達をお願いすることがある。オーナーは私の顔を覚えてくれた。息子と店に行くと、なんやかんや話しかけてくれる。それが鬱陶しいか?彼もまた、商売でやっているだけ?私はやはり嬉しいと思う。息子のはじめてのおつかいは、この店になるかもしれないのだから。
 
 
たぶんおばあちゃんになっても、私は「さんまの煮付け」をコンビニに持っていくことはない。変な人だと思われたらイヤだから。でも、自分にとっての「赤ちょうちん」みたいな店はつくると思う。もしくは毎日「NHK」や「笑っていいとも」を観るだろう、私のおばあちゃんみたいに。仕方がない、そこにしか「いつも同じ場所」がないのなら。
 
 
ほっといてほしいのに、顔を覚えてほしい。新しいものを欲するくせに、変わらないでいてと願う。消費者とは、人間とは、本当に勝手な生き物である。