kobeniの日記

仕事・育児・目に見えない大切なものなどについて考えています。

惨劇は起きない 〜「リバーズ・エッジ」/「流山ブルーバード」〜

実家の冷蔵庫にはいつも牛乳が入っている。牛乳の賞味期限は意外と短く一週間程度だ。シチューなどの料理にも使えるしコーヒーに入れてカフェオレにもできるし、ケーキなどのお菓子づくりにも使う。

実家暮らしだと、冷蔵庫に飲み物が牛乳しかないことがある。だから喉が乾くと仕方なく牛乳を取り出してラッパ飲みをする。兄が飲んだその牛乳パックから、直に弟も飲む。家族が不在がちだと牛乳は冷蔵庫の中ですぐに腐る。その家の人々の暮らしを、紙パックの牛乳は映している。

 

昨年末に、下北沢の本多劇場で「流山ブルーバード」という舞台を観た。流山市という平凡な地方都市で生まれ育ち、そこから出られない閉塞感に苛立ちながらも毎日をやり過ごす男たちの話。主人公の満(賀来賢人)の兄・国男(皆川猿時)は、両親の魚屋を継いでおり毎朝5時起きで市場へ出かける。弟は、同じ街に住む自らの親友の妻と長らく不倫しており、女を知らず何年も魚屋の店先に立ち続ける兄を馬鹿にしている。そんな二人はひとつ屋根の下、冷蔵庫の同じ紙パックの牛乳を共有している。

 

「郊外の、特徴があるともないともつかない街における群像劇」という設定からか、舞台を観終わった時に私は、漫画「リバーズ・エッジ」(岡崎京子作、1994)のことを思い出していた。先日、映画になった「リバーズ・エッジ」を観て、さらにこの二作の類似点や相違点について想いを馳せた。

映画版「リバーズ・エッジ」には、登場人物(そのほとんどが高校生の子どもたち)がそれぞれに牛乳を飲む姿を象徴的に繋いだシーンがあった。過食嘔吐を繰り返すモデルの吉川こずえは、大量のジャンクフードと共に新鮮な牛乳をラッパ飲みする。首筋にダラダラと雫が垂れ、いくつも白い線をつける。親から関心を持たれずひとり自宅に放置されている観音崎は、冷蔵庫で空のままの牛乳パックに苛立ち、流しに投げつける。援助交際を繰り返すルミは、お菓子を作ろうと牛乳を探すが、自室に引き篭もっている姉がココアの粉を大量に入れて飲み干しており激怒する。姉は驚きその牛乳を自作のBL漫画の上に溢す。姉はときどきルミの日記を盗み見ており、ルミは、男を知らない姉の描くBL漫画を馬鹿にしている。

 

「リバーズ・エッジ」をはじめて読んだのは高校生の時だった。その頃の自分がこの漫画をどう受け止めたのか、正確には覚えていない。ただ、「ここには本当のことが書いてある」と思った。死体を見ることで自分がやっと「生きている」と感じることができる。他の何にも悲しみを感じないのに、学校でこっそり可愛がっていた子猫が殺された時にはボロボロと涙が出る。そういうエピソードを私は驚きと共感を持って受け入れた。薬も援助交際もやっていない、学校行事もそれなりにエンジョイする地方の平凡な高校生だった私だが、それでも「ああ、私の毎日ってやっぱり戦場なんだ。『平坦な戦場』なんだ…」と、目が覚めるような思いがした。

高校生の頃に制服がセーラー服だったと言うと、「いいなー!着たかった」と言われることがある。だが私は「早く脱ぎ捨てたい」と思っていたことを覚えている。自分が着たいと思う服を着られない、自宅の壁が薄い部屋に暮らすしかなくプライベートがろくに守られない。毎日行くべき場所は学校しかないが、そこに本音を言える友達もあまりいない。本音で話せば「なにマジになってんの」と、笑い飛ばされてしまうだろうから。

「この街からどこへも行けない」ことへの苛立ちを、「リバーズ・エッジ」を読むとかろうじて思い出すことができる(もう地元の街を出て20年は経っているから。正直、「前世ぐらい前」という印象なのだ)。

 

「街そのものが、どこへも行けない密室」かつ「壁の薄い部屋の集合体」の中で、「リバーズ・エッジ」では、風船が弾けるように惨劇が起きる。ちょっと過剰サービスなんじゃないか、というぐらい、次々に起きる。ルミは父親のわからない子を妊娠してしまう。そのことに苛立つルミに「お前のことなんか誰も愛してない」と言われ、観音崎はルミの首を締めて殺してしまう(後に死には至らなかったことがわかるのだが)。日記を盗み見た姉にルミが逆上し、暴言を吐いたことでカッターで刺され、宿していた子どもを堕胎する。田島カンナがハルナの家に放火しようとして自らに火をつけてしまうーー

 

 

 

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 映画版「リバーズ・エッジ」では、モデルの吉川こずえ役を、あのCHARAの娘のSumireが演じています

 

 

一方「流山ブルーバード」では、何も「パチンと弾け」ない。惨劇が起きる寸前で不発に終わる。赤堀雅秋の作品はいつもそうだ。場末のスナックで、何もない空き地で、薄汚いラブホテルで、ガストの片隅で。我々が生きている中で時折感じる小さくも不穏なエピソードが重なっていき、刃傷沙汰になりそうな寸前で終わる。決闘めいた物語のクライマックスがあってもどちらも死なないし、登場人物が話の終わりに明確に何かを悟ったりはしない。大人になった私にとってはこのように、惨劇が「起きない」方がもちろんリアルだ。ただ、ルミを殺してしまった(と勘違いし、時間が経ったのちの)観音崎のスッキリした笑顔を思い出すと、むしろ「パチンと弾けさせ登場人物たちの目を覚まさせようとした」岡崎京子に対して、優しさすら感じてしまう。現実の世界では、何の不穏がどう連鎖しているのか、漫画や舞台のようにはわからないし、基本的には「何も弾けない」。自らの人生について決定的なことを何ひとつ起こせない登場人物たちは正直、無様だ。私はその無様さ、馬鹿さ惨めさを観るのが癖になってしまったらしく、去年は赤堀雅秋の舞台を二度も観に行った。「流山ブルーバード」を観た後も、「今回も情けなくて不完全燃焼で、最高だった」という気持ちで大変満足し、本多劇場(岡崎京子の生まれ育った下北沢にある)を後にしたのだった。

 

 

 

子を持つ親になった今「リバーズ・エッジ」を観ると、大人が、子どもたちを愛さないことによって、社会が、責任を果たさないことによって、子どもたちが知らず知らず深く傷つけ合っている…ように見える。全ての悲しみや怒りや寂しさは、別々に存在しているように見えて実は繋がっており、その発端には大人の不在があるような気がしてくる。そういえば漫画「リバーズ・エッジ」が出版されたのと全く同時期に、エヴァンゲリオンが社会現象になっていたんだっけ。そこで「アダルトチルドレン」という言葉が、大変持て囃されたのではなかったか。

 

「流山ブルーバード」に出てくるのは基本的には大人たちだ。毎日同じで退屈だと宣うスナックのママは、刺激を求めて風俗のバイトを始める。ダラダラと不倫を続けている満は、親友の妻である美咲に「一緒に沖縄へ逃げよう」と約束するが、翌日あっさり約束を反故にしまた魚屋を手伝っている。魚屋の隣に住む順子は、魚屋に苦情を述べに来たついでに宇宙の真理を解き兄の国男を宗教に勧誘する。その彼女を疎ましがる弟を、兄は諭す。「知らないのか?あの人はお子さんを亡くして一人になってから、ああなんだ。みんな、寂しいから、おかしくなる!!」

「リバーズ・エッジ」の子どもたちの隣に、こういう大人たちが暮らしているんだとしたら、と思う。用を足す音が居間に聴こえてしまうような薄い壁の「実家」で。大人たちもそれぞれ、何もかもが不確かな現実に戸惑い、不安や寂しさばかり感じていて、でもそのことに向き合うのは恐ろしいから、目の前の家族や自分自身のことじゃなく「宇宙の真理」について想いを馳せてしまう。「こんなはずじゃなかった、ずっとこの街にいるつもりはなかった」。でも、じゃあ、どんな自分なら許せたのか? ほんとうにこの街から出て行きたかったのか……?

 

「リバーズ・エッジ」を観た10代の友人(Twitterで知り合った)が、「ルミのピアスがノンホールピアスだった」と教えてくれた。自暴自棄に男たちと関係を持ち続けているくせに、ピアスの穴も開けられない臆病さが気になったのだと言う。

そういえば、赤堀作品では舞台上でほぼ全ての登場人物が煙草を吸うのだが(たぶん、何かにつけ「うまく言葉にできない」ことを表しているのだろう)、「流山ブルーバード」の主人公の満は、ずっとiqosを吸っていた。なぜ彼ひとりだけ電子タバコなんだろう。しかしノンホールピアスもiqosも、自暴自棄や虚無感といった感情に「飲まれきることができない、中途半端に残る自己愛」をとても上手く表しているように思う。

映画を通して久しぶりに会ったルミや観音崎のことを、私はとても愛おしく感じた。臆病で小さくて健気なお馬鹿さんたち。流山で燻っている満達にも、同じような愛おしさを感じた。人間ってクズで馬鹿で小さくて哀しくてワガママで一生懸命で本当に…かわいいな。私もきっと、UFOから見たら、このぐらいショボくて無様なんだろうなあ……。

 

 

「流山ブルーバード」は他の赤堀作品に比べてかなりポジティブに終わる(と私は思っている)。映画版「リバーズ・エッジ」もそうだ。

1994年に「リバーズ・エッジ」が出版された時、「いま子どもたちが生きているのは平坦な戦場である」と言ってくれる人は他にいなかった。だから「救い」めいたものは当時の私には別に不要だった。ここを「戦場だ」と言い、パチンと惨劇を起こして見せてくれたことで、私は多くのことに気づいたように思う。

今の私たちはもう、惨劇について大きいものから小さいものまで見過ぎた後じゃないだろうか。9.11も3.11も経験し、今は2018年だ。あの頃には名前のついていなかった子どもたちの苦しみには「メンヘラ」「DQN」「中二病」などの名前がつき、それによって楽になった部分もあれば、逆にますます「誰にも言えない」と感じている子どもたちもいるかもしれない。

だから今はきっと、ポジティブな終わりが求められている。「救いw」とか言っていてはいけない。両作品とも、不確かな現実を見せつけるだけでなく、戦場でなんとか生き延びるための、手がかりを見せようと真摯につくられていると感じた。

そのあたりはぜひ、両作品をご覧になって確かめてみてほしいと思う。

 

 

 

「流山ブルーバード」が、衛星劇場にて初放送されるそうです。4/8  16時〜

http://www.eigeki.com/series?action=index&id=16249&category_id=7

 

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映画「リバーズ・エッジ」まだ公開中の劇場もあります

映画『リバーズ・エッジ』公式サイト | 公開中!

 

原作「リバーズ・エッジ」もぜひ。映画公開に合わせて各種評論本も出ています

 

リバーズ・エッジ オリジナル復刻版

リバーズ・エッジ オリジナル復刻版

 

 

エッジ・オブ・リバーズ・エッジ―<岡崎京子>を捜す

エッジ・オブ・リバーズ・エッジ―<岡崎京子>を捜す

 

 

文學界2018年3月号

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