kobeniの日記

仕事・育児・目に見えない大切なものなどについて考えています。

「半分、青い。」のここが好きでした

 

 

半分、青い。」が終わった。久々に完走した朝ドラだった。もともと朝ドラの中でも現代劇が好きなので、今回も楽しみにしていたんだけど、想像以上に好きなところが多いドラマだった。

 

 

 詩的表現、少女漫画的エッセンス

 

観始めた頃、最初に気になっていたのは、会話あるいはモノローグに、詩のような表現が多く含まれているということだった。「モノローグに詩的表現が多く含まれる」は、少女マンガによくある手法だ。なのでかなり早い段階で、「このドラマは少女漫画だ」と思いながら視聴していた。

まず登場人物たちの名前が美しい。口に出した時の音がとてもキレイだ。楡野鈴愛、萩尾律。鈴愛の娘の名前は花野。この音と漢字のチョイス、子どもの名づけをしたことがある人なら「上手い…」と感じるんじゃないだろうか。母の名前は晴、父の名前は宇太郎。これはおそらく「どう呼び合うか」の音の方から決めたんじゃないだろうか。「ハルさん」「うーちゃん」と呼び合う夫婦は、岐阜の田舎に住んでいる割には現代的で自由な風が吹いており、地元出身じゃなく県外からやってきた人たちなのかなと感じさせられる。この二人ならあまり画数に拘ったりせず、「鈴愛」という名前を娘につけてもおかしくないだろう。

笛の音で恋人を呼ぶ。ゾートロープ。川を挟む糸電話。もはやモチーフそれ自体がとても少女趣味である。もちろん、いい意味で。

 

「律の心の真ん中は、遠いのかもしれない」

「(落ちてきたバドミントンの羽根に)手の中に雛鳥がいるかと思った」

高速バスで東京に向かう時、後ろの窓に息をハーッと吹きかけて「大好き」と書く。

 

毎日ひとつ、日常の中でなかなか聞けない小さな詩を受け取っているようで、それがとても新鮮だったし、楽しかった。

鈴愛は、くらもちふさこがモチーフになっている少女漫画家、秋風羽織に弟子入りをする。私は学生時代、お金がなく古本屋でくらもちふさこの漫画を探したくさん読んでいたので、これは嬉しい再会だった。

 

 

 主人公の出身地が岐阜

 

脚本家の北川さんの出身地が岐阜県ということで、幼少期の舞台は岐阜である。私は父の出身地が岐阜で自分は名古屋生まれ・名古屋育ち(その後、17歳で上京しました)なので、その点でも「懐かしい…!」と思うことがたくさんあった。五平餅は小さい頃によく食べたし、さるぼぼも家にあった(なんで顔がないんだろ…というのはずっと思っていた)。「やってまった(やってしまった)」も「まーかん(もうだめ)」も、「ありがと(が、にアクセント)」も、名古屋でも言うし、「(そうでしょ?の意味の)ほやらー?」に至っては、「うわっ!おばあちゃんが言ってた!!」と、本当に懐かしく感じた。

 

最後の方に出てきた台詞「岐阜県人は借金が苦手です」も、けっこう笑ってしまった。なんとなくわからなくないというか、岐阜は山に囲まれた場所で、おっとり質素に暮らしてる人が多いイメージがあり、北川さんの岐阜への愛を感じたりもした。大きな川や山々を見晴らす高台など、美しい自然がたびたび作中に登場したが、私も父と岐阜の川で、水面に小石を飛ばす「水切り」をやったことがあった。岐阜に、久しぶりに帰りたいなと思った。私も梟町に行ってみたい。以前、今も岐阜に住んでいる叔父さんに会った時、叔父さんが「蛍いっぱいおるよ。駐車場の電気のとこに」と言っていた。鈴愛と律はそんなところで、自然の風を毎日浴びながら育ったんだよな…と、しみじみ思う。

 

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チャーミングなキャラクターたち

 

「半分、青い」には、100%カンペキな人は出てこない。どの人もどこかに不完全さがある。鈴愛は主人公で、夢を見る力やそれに向かって進む強いエネルギーを持っているが、あまり空気が読めないし、時々人の気持ちにズケズケ入り込んでしまう。鈴愛の幼なじみの律は、めちゃくちゃイケメンなのだが、自分に自信がなくとても傷つきやすい。うーちゃんは明るくてムードメーカーだけど少年っぽすぎる時があるし、晴さんはいつも娘を第一に考えるけれどそれ故に心配性すぎるところがある。初登場の時、肩に仔猫を乗せて登場したまぁくんは、優しいけど女たらしだし、鈴愛の夫になった涼次は、感受性が鋭く気持ちをまっすぐ言葉で表せる男だが、「家族は邪魔になる」と、なんと鈴愛と娘を捨てて自分の夢の方をとってしまった。……ザワつく。ひたすら心がザワつく、でもその多面性のある描き方故に100%嫌いにはなれない。どの人も「本当にいるんじゃないか」と思えたし、欠点も次第に可愛げに見えてきて、愛おしく感じられた。

毎日ドラマを観ている者としては、そこに登場する台詞や行動で、その人がどんな人かを想像するのもひとつの楽しみなのだが、このドラマはそういった想像のしがいがあった。最初からぜんぶ分かるようには作られておらず、徐々にその人物の別の面が顔を出すので、「そんなこと考えてたの…?」「そういう人だったのか…」など、いちいち驚きながら、自分の中のその人像を上書きして観ていた。

 

特に律。大学時代は鈴愛が「律のことが好きなのかも」と言っても、「俺は青春を謳歌したい」とかいうふざけた理由で別の美人女子、清(さや。※弓道部。弓道部ですよ弓道部。ヒロイン感すごい)と付き合っていた。そこから長い時間が経って、鈴愛と律は社会人になり居住地すら東京と大阪に別れてしまう。そしてある日、地元の岐阜で会った時、律はとつぜん「鈴愛、結婚しないか」とプロポーズする。その日の私のツイートがこれである。

 

 

 

 

この日から私の中で律=秒速5センチメートル男、というラべリングがなされた。つまりどんなに他の女と出会っても実は心の中で鈴愛だけを想っている、そしてその感情をごまかしごまかし、生きている。出す宛のないメールを書いては消し書いては消し、「こんなとこにいるはずもないのに」とつぶやく。大変面倒くさい。正直、巻き込まれたくない。

だがそんな律が、ついに鈴愛にキスした後すら「鈴愛のテンションに任せるよ」とか寝言をほざく律が、最終回ではなんとか自分を奮い立たせ「鈴愛を幸せにできますように」と伝えることができた。唐突なプロポーズから最終回までの間に、律がどんな人間であるか分かるエピソードが、ちょいちょい挟みこまれた。そういう中で私たちは、このロンリー・センシティブ・内向的エンジニアボーイ萩尾律の成長を、ハラハラしながら見届けることができたのである。いや本当によかったな萩尾律。秒速5センチメートルじゃなくて「君の名は。」的なエンドルートで終わることができて。がんばったよお前。…あれ、なんの話してたんだっけ。

 

鈴愛から見た律は、右往左往しながらも、最終的には自分を選んでくれた最高の王子様であったが、その右往左往に付き合わされた脇役(元カノの清と、元妻のより子)が自分だったらと考えると、だいぶイヤだしサッサと新しい男を上書き保存で次行こ、と思ってしまう。ということで、この二人が律を過去の男としてやいやい言い、今はまったくご機嫌にやってるよ、というスピンオフが観たいと思っています。

より子「結婚式にさあ、花束贈られてきたんだよ」

清「えー?信じられない」

より子「しかもすごい立派で(笑 なんか、相変わらずだなと思ったわ」

とか言いつつ。

 

 

 

「ものづくり」に挑むこと、夢の追い方・諦め方

 

脚本家の北川さんは今回、かなり自分の身を削ってお話をつくられていると思うのだけど、中でも「漫画家」や「エンジニア」という、何かをつくる仕事の楽しさ・やりがいと、一方の厳しさ・残酷さみたいなものを、おそらくご自分の経験を基に、真っ向から描いてくれていた。ここがいちばん、私の心に響いた部分だった。

鈴愛は漫画家を「ぜったい天職だ」という気持ちで目指す。実際鈴愛は、シーンに関してはとても独創的に思い描くことができ、才能はあるはずだった。けれど、ネーム(物語)がどうしても思いつかず、漫画家を続けることが苦しくなり、その道を諦めてしまう。

鈴愛が漫画を描けなくなって、師匠の秋風先生に「どうして今までみたいに、私に描けと言ってくれないんだ」と言って感情を爆発させるシーンのことを、星野源が「いちばん好き」と言っていた。ゼロからイチにする作業というのは、どんな内容であれラクではない。産みの苦しみ、というようなものがある。私は、鈴愛ほど純度の高い創作をしてはいないので、「描けない!!!」と切羽詰まったことはない(なんとか形にしてしまって、世の中に出してしまったことが多かったと思う)が、仕事をしていて「これは、努力しても、これ以上良くはならないかもしれない…」「良くするためには、もっともっと時間が要るような気がする…もうダメだ」と思ったことがあり、その時の、自分に対する残念な気持ちはなんとなく忘れられないでいる。

 

鈴愛が漫画家を諦めるあたりでは、多くの現役漫画家さんが「あきらめる必要なんかない」「努力すれば物語だって描けるようになる」と言っていた。それは、私もそう思う。でも一方で私は、もしかしたら現実に、「神様にNOと言われる」という、そういった残酷なこともあるのかもしれないと思った。それは、この物語に初めて教わったことだった。

鈴愛が感情を爆発させるシーンも好きだが、ユーコが、「『お前じゃダメだ』と(神様に)言われるとしても、手を伸ばしてもがく、それが人生じゃん」と言った回は、観ていたら涙が出てしまい、とても驚いた。そして私が、「向いていないのでは…」と、何度も疑念を抱きながらも仕事を続ける中で、たくさんの同僚女子が辞めていったことを思い出した。彼女たちの中にも、本当に様々な葛藤や諦めがあって、そこに至ったのかもしれない。私は私自身のことを「何かになった者」だとも思うし、「なれなかった者」だとも思っている。そう考えると鈴愛の挫折は、クリエイターだけでなく多くの人に響いたのではないか、という気がした。星野源のようなトップクリエイターすら、あの挫折に共感しているのだ。

 

しかも、そこから、鈴愛はなお積極的に生きようとした。もしかしたらムリをすれば漫画家を続けられたかもしれないが、「私は、自分の人生に、晴れの日を増やしたい」と言って、非常に前向きに、諦めた。強がりだったとしてもその生命エネルギーには感嘆したし、その後、彼女が新しい夢に向かって挑戦していく姿も清々しかった。「あまちゃん」も、海女→アイドル、と、途中でなりたいものが変わった朝ドラだったが、鈴愛のように、「一度は何かになり、挫折して、さらに別の何かに挑戦する」というストーリーも、私にはとても新鮮だった。

 

 

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病気や死とどう付き合っていくか

 

北川さんが難病の重い症状を抱えて、それと共に生きつつ書いていたドラマだったせいなのか、このドラマでは容赦なく人が亡くなった。律の母親である和子さんや、鈴愛の祖父・祖母、そして鈴愛の親友であるユーコ。

私は5年前に母を亡くしてから、死生観がだいぶ変わった。母の死が最も「身近な死」ではあったのだが、このドラマの病気や死(母親の死も含まれる)の扱い方は、非常にリアルだと感じた。私と同世代の友人たちは、まだ両親が健在だったりする人も多く、私はどうやら「ちょっと早く」親の死を知ることとなったようだ。

そのように、「はからずも身近な人の死に早く直面せざるを得なかった」人は、実はたくさんいる。そして、その気持ちはなかなか他人と共有できない。家族とすら難しいのだ。「亡くなった人と自分」の関係性が一対一である以上、他の人に分かってほしいと思っても無理なのだ。だから人は、実はそういった死について、ひっそり心の奥の方に抱えて、生きている。

 

律が和子さんを送った描写については、ただひたすら本当にリアルだった。「何をどうしていいかわからんくて」と言った律の気持ちは痛いほどわかったし(「余命このくらいです」と宣告されてからの時間は、正直家族にとっては焦りと悲しみで息つまる日々である)、そんな律の気持ちを慮って「苺を買ってきて」とワガママを言ってあげる和子さんの優しさも、痛いほどわかった。ただ、律は、「僕はあなたの子で良かった」を、キチンと伝えることができて本当に幸せだったと思う。死なれてしまってからでは、何も伝えることができないからだ。

 

震災描写は賛否両論あったようだが、先に書いたように「はからずも身近な人を、早く亡くした」人は実は本当にたくさんいる。このドラマではそんな人たち、どこか心の奥底で「まだ悲しみ足りない」と思っている人たちに、(誰かの、あるいは自分にいずれやって来る)死との付き合い方について、メッセージしたかったのではないかと思った。

それを受け取るかどうかは、私たちの自由ではある。

 

 

 

 

よくもわるくもクセがたくさんあって、続きが気になるし時々泣かされるし、変てこりんでおもしろい半年間だった。一方で、脚本家への極度の誹謗中傷が流れたり、明らかに作品を貶めるタグが公式タグと混ざって使われたり、特に終盤の視聴体験は本当につらかった。ドラマ好きとしては、そういったことが今後ないようにと願う。

私は、たくさんのものを受け取りました。たのしい半年間を、ありがとうございました!

 

 

 

 

そういえばノベライズがすごく面白いです。TVではけっこうカットされてしまったシーンもあるし、心情描写がキャラクターたちの台詞の行間を埋めてくれます。

 

半分、青い。 上 (文春文庫)

半分、青い。 上 (文春文庫)

 

 

 

半分、青い。 下 (文春文庫)

半分、青い。 下 (文春文庫)

 

リツ〜!リツのフォトブック、欲しい。