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kobeniの日記

仕事・育児・伏し目がちなメガネ男子などについて考えています

キッチン・コックピットから

 
 
皆さんは料理が好きですか?
 
私はもともと料理が苦手で、20代の頃は外食ばかりしていた。子供が生まれてから、さすがに外食ばかりではまずかろう、食費もバカにならないしと、ようやく重い腰をあげて、自炊に向き合うことにした。とはいえあまり気持ちが前向きでないので、かなりいきあたりばったりで料理をする日々。献立を考えるのもおっくうだし、レシピを覚えて「自分のものにしよう」という気持ちもないため、いつまでも腕が上がらない。決まった献立で食材を送ってくれる食材宅配「ヨシケイ」を使っていたこともある。けれどヨシケイは、基本の夕食献立が「三品ワンセット」だ。仕事を終えて保育園へ息子を迎えに行き、帰宅してから調理にかけられる時間はせいぜい30分。そんなタイムショック状態の我が家にヨシケイは、たとえば「スカイツリー完成記念!」と称し、ハンバーグと目玉焼きをツリー状にしたエクストリームレシピを提案してきたりする。「ヨ、ヨシケイ様…平日からタワーはパワー的に厳しいです、どうかお許しを……!」という日が続き、私はついにヨシケイ様もギブアップしてしまったのだった。
 
しかし先日二人目が産まれて、しかも子供達二人とも男児と来ている。彼らが食べ盛りになったらどうするの、私。お惣菜の唐揚げとコロッケを与えておくだけでは済まされないでしょう!ヨシケイギブアップ以来なんとなく気持ちが遠のいていた料理だが、さすがに一念発起し、おら育休中になんとかするべ!と、料理修行に力を入れ始めた。
 
料理修行といっても、一週間分の献立をまとめて立てて、それに沿って食材を宅配(今は生協を使っています)で購入し、一週間ずつまわす。そしてそれぞれのレシピを、ボーっとして作ることによって一期一会に、ではなくなるべく頭に入れて自分のものにして、調理に慣れる。ぐらいのことなのです。アータ、そんなこともやってなかったの!と怒られそうですが……すいません。けれどこういう工夫を始めたら、今まで気づかなかった料理の奥深さが、ちょっとずつ見えてくるのでおもしろい。
まず、「ほとんどの和食って、しょうゆとみりんと酒と砂糖で味つけされてんのな」ってこと。和食レシピは何を作るにしてもだいたい、これら調味料の加減で味つけが決まっている。すごい。逆に言うと、これらで適当に味つけすれば、だいたいの食材は美味しく頂けるのかもしれない。
それから外食で美味しいものを食べた時、「あー美味しかった」で終わらなくなった。「あー美味しかった。…で、これ、どうやって作るの?」となる。もしかしたら自宅で再現できるかも!という観点が生まれたのです。店員さんに聞くのは難しいので、レシピは想像になっちゃうけど、実際に作ってみるのも楽しい。「お店のあの味を再現」なんていう記事が、人気を博すのも分かります。
 
料理のやりくりに凝り出すと、食材をキッチリ使い切れた時、またそれによって冷蔵庫の野菜室が空っぽになった時などに、えも言われぬ達成感がある。勝った……あの時に特売だからといってなすを大量に買わなかったオレ、勝ち組……!というような気持ちになれます。別に食材が余ったら、それでもう一品作ったりすればいいんだけど、私はまだ修行が足りずそこまでの腕がない。漫画「アラサーちゃん」に、「得意料理は?」と男性に聞かれた時の最新の答え方(「肉じゃが」の次世代バージョン)として「冷蔵庫の中にあるものでパパッと作ったものかな」とありました。とても納得。私もパパッと、を目指して精進したい。
 
そして当然の帰結とも言えるが、ついに料理をする「場所」にもこだわりだしてしまった。つまりキッチン。主婦の聖地キッチン。手の届く場所に適切な調味料を配置したい!各種調理器具をキレイに収納したい!コンロ脇などのスペースを有効活用したい……!かくして我が家のキッチンの「コックピット化」は進んでゆく。
空間という空間、スペースというスペースを見逃さない。そこにふきんを引っ掛ける、鍋のふたを引っ掛ける、キッチンペーパーを引っ掛ける。そして、仕切る。箸などのカトラリーを仕切る、小皿やどんぶりを仕切る、冷蔵庫の野菜室まで仕切る。シンク下の扉裏側、足元の平たく大きな引き出し、頭上の空きスペース、とにかく引っ掛けたり仕切ったり。そうこうするうちに、シンク前から一歩も動かずに調理ができるようになる。キッチン・コックピットの完成である。
 
キッチンの収納具を買う時は、雑誌Martを参考に。Martの「推し100円ショップ」にてたくさんのラックと仕切りを買い、徐々に私のコックピットも完成しつつあります。もう来年あたり種子島から打ち上げができそう。
 ちなみにMart主婦的には、コックピットには機能性だけでなく、かわいらしさも重要。ギンガムチェックなコックピット。ボサノヴァが流れるコックピット。仕上げは瓶ですね、瓶。しかもただの瓶じゃない。ハワイで買ったスターバックスコーヒーの空き瓶、などがベスト。私もとりあえず100円ショップで買った瓶を置いた。中に何を入れたらいいかわからず、とりあえず並べてみた。正直「並べるだけでいいの?」感は否めない。でも打ち上げスタンバイはOKです、BGMはアントニオ・カルロス・ジョビンで。
 

 

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  私の母は料理が嫌いで、傍で見ていてもとにかく調理ができとうだった。ただ彼女の場合、「女性は家庭で料理をするのが当然」という時代に生きていたせいで、本来の「料理そのもの」を、純粋に楽しむことができなかったんじゃないかなあ、と今は思う。料理というものに余計な文脈がたくさん、くっついてくる時代。母は意地を張っていたのかもしれない。でもまあ、そんな気持ちも分からなくはない。
料理から、社会的・文化的なアレコレを除けて向き合うと、当たり前のことながら、人間にとって料理・食べ物の存在はとても大きいものだと感じる。かつて、つわりで思うように食事が取れない、何を食べても美味しくない数週間を体験したが、その辛さは予想以上だった。何せ人は一日に三度も食事をするのだ。「美味しいものを食べる」という行為が、日々の中で我々にもたらしてくれる幸福感を軽く見積もってはいけない。たとえ他に色々と楽しみがあったとしても、食べることが出来なくなったら、生きる気力をごっそり奪われてしまうのではないか、と想像している。
 


 ところでレシピには著作権がない、という話を聞いたことがある。レシピそれ自体は料理づくりのノウハウであって、「表現」ではないということらしい。(料理についてまとめた本などは著作権が発生する)そういえば先日、cookpadのレシピのまんま料理する女がムカつく、みたいな記事が炎上しかかっていたが、この、著作権がないという話から考えても、料理はむしろむやみに創作的でない方が正解である、先人たちが開発してきたノウハウに忠実につくった方がただしいとも言えるんじゃないか。というか、創造的だと時間がかかりすぎるしね。ツリー状のハンバーグとかね。

ということは「おふくろの味」なんかにも、著作権は発生しないわけだ。けれど美味しいものを一緒に食べたその瞬間は、唯一無二のものとして思い出に残るわけですね。

 


たとえば家族や親しい人に、感謝の気持ちを伝えたいとか、喜ばせたいと思った時。美味しい料理をつくるのは、一番と言っていいぐらい「手っ取り早い」方法なんじゃないか。特別な日じゃなくなんでもない日にも、食事は取るわけだから、そこにいつもより少しだけ手をかける、というくらいなら、さりげなくできる。そう考えると料理って、ベタなのにとても高尚な行いに思えてくる。私の場合はもっと自己中心的なので、自分が美味しいものを食べたいから頑張る、という感じだけれど。うちの母も意地を張らずに色々やってみれば良かったのに。小さな子と一緒に料理をすると、こねたりお団子にしたりなど、遊びに近い要素も含まれるから、これまた、たとえば雨の日、予定がない日の子供たちとの過ごし方として非常に手っ取り早いのに。

 
 
ベタだけど、意地を張らないでやってみたら実は面白いものって、きっとこの世にたくさんあるんでしょうね。毎日の料理は仕事にも趣味にも分類できない、力の入れ具合が難しいものだけれど、意外と、創造的な映画などよりもパワーを発揮する時があるんじゃないかしら。とか思いながら、頭上のキッチンペーパーにサッと手を伸ばしてみたりして。
 
 
 

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冒頭の話に戻るけれど、とはいえ毎週の献立を途切れなく考えるのはやはり簡単ではない。そこで最近、「献立をオンラインで共有する」というのをお友達とやっています。それについては、次回書きますね。